たろうです☺️
最近よく、「マインドフルネス」とか「瞑想」に関する本やら言葉を目にするようになってきましたね。
日本人は特に、社会性(人間は集団や群れを作ることで弱肉強食の世界を生き延びてきた)を重視する人種で、人間関係でのストレスや過去/未来に対する不安に晒されやすいこともあり
多くの人が、自分の心を守り平穏を保つ為の手段として「瞑想」や「ヨガ」を日常的に取り入れているのだと思います。
かくいう僕も、旅に出てから「瞑想」と出会い、今年に入ってから日常的に実践を繰り返してきました。
今回は、瞑想を実践し続けるなかで自分に起きた変化や気づきに関してのお話と、そもそも瞑想ってなんなんだろうという“問い”に向き合っていきたいと思います。
目次
「瞑想」の歴史
瞑想の歴史は古く、約5,000年前の四大文明の一つ、インダス文明の遺跡・モヘンジョダロから座して瞑想しているような人が刻まれた印章が発見されています。
そこから2500年ほど前には、仏教の開祖である”釈迦(ガウタマ・シッダールタ)が「自らの消えない苦しみや悩み」を手放す為、一国の王子である身分も家族も全て捨てて出家をし、様々な修行を経て“悟り”と呼ばれる境地に至った時。
彼は、菩提樹と呼ばれる樹の下で「瞑想」を通してその境地に至ったと言われています。
※釈迦が”悟り”に至り、仏陀となって仏教を興すまでのストーリーも別記事で書きたいと思います。
そもそも「瞑想」って?
=
瞑想とは、心を静めて”無心”になること、何も考えずリラックスすること、心静めて神に祈ったり、何かに心を集中させること、目を閉じて深く静かに思いをめぐらすこと。
=
本来は、「冥想」と書くと思われ、単に心身の静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、絶対者(神)をありありと体感したり、究極の智慧(ちえ)を得るようなものまで、広い範囲に用いられる。
=
現代では、健康の向上や心理的治療、自己成長、自己向上などの世俗的な目的をもって、様々な瞑想が行われている。(瞑想の種類も多様にある)
=
ある宗教学者は、昔は狩猟・漁猟を行うことで食糧を得て生き延びてきた経緯があり、人にとって命を食べることは、命がけの宗教的・呪術的行為であった。
狩猟は命の交換の行為であり、狩猟民は、命がけで動物たちとの戦いに挑み、その中で自然への畏怖の気持ちを高め、同時に恐ろしい動物を前にしても立ち向かうことができるよう、自己をコントロールし、動物と戦うために自己と戦わなければならなかった。
このような心のコントロール・制御の方法を開発する道程から、夢見法や瞑想、観想が生まれ、さらにそのような集中や制御が、止観や禅を生み、山を歩き走ることが、山岳跋渉や修験道を生んだと考えている。
=
かの有名なWikipediaには
このように記述されている。
たろうにとっての「瞑想」
そんな中、たろうにとっての瞑想は
「自分自身と繋がる手段」と考えている。
現代は、技術の進歩によって目まぐるしく世界の在り方が変化し、人や情報で溢れ返り、1人1人がその大きな渦に飲み込まれるようにして、社会というものが形作られているような気がする。
「自分が本当は、何を求めているのか?」
「自分が本当にしたいことって?」
僕自身も、そんなことを考えながら、様々な情報に踊らされ、迷い続けている人間の1人。
そんな中で、僕は人間一人一人が育ってきた環境も辿ってきた道も違う中で、それぞれの人生を生きる上での”願い”や”目的”のようなものがあるように思っていて、誰しもが“自分の命の正しい使い道”を求めて、今という現実に対してもがき苦しみながら必死に生きている気がしている。
じゃあ、その答えは一体どこにあるのか?と考えた時に、僕はその答えを自分の「外側」に求め続けた。でも、求めれば求めるほど、あれじゃないこれじゃないと迷う結果になって、
いつまで経っても、
自分の命の正しい使い道は見つからなかった。
けれど、最近になって“瞑想”を通して
自分の今抱いている感情を観察し、それが過去/現在/未来のどこから来ているのかを感じていく中で、「答えは全て自分の内側にしかない。」ということに気付き始めた。
「答えは全て、自分の内側にある。」そんな言葉は自己啓発本だったりによく出てくるし、頭では理解しているつもりになっていたけれど
その感覚が、”瞑想”を通して腑に落ちてきた。
この「腑に落ちる」という感覚が、自分はとても大事だと思っていて。知識として知っているのではなく、これまでの経験と体験を伴って腹の底で理解する感覚。
これを得られたことで、生まれて初めて真剣に自分の内面と向き合おうという意識が生まれた。
それも、表面を掠め取るような浅い向き合い方ではなくて、自分の見たくない部分/これまで目を逸らしてきた部分に対しても真っ正面から向き合って、痛みも苦しみも引き受けながら一つ一つを認めていく作業。
自分の内面を”海”に例えると
分かりやすいと思うのだけれど、
=
深く潜っていけばいくほど息は苦しく、身体はシンドくなってくる。内面に深く潜り過ぎれば還ってこれなくなって、正しい潜り方と行き先を知らなければ同じ所をぐるぐると泳ぐだけでいつまでも自分を知ることなく終わってしまう。
=
その中で、
僕自身は”瞑想”を通して、「内側の自分=魂」のようなものを掴んだ気がしている。もちろん、それは始まりでしかなくて、多分死ぬまでずっと続く作業なのだと思うし、今掴んだと思うものが本当に自分が望んでいたものかは分からない。
けれど
「瞑想」をすれば、、、とか
「マインドフルネス」、、、とか
西洋の「病気だから、薬や手術といった外側から治す」ような”対症療法”的な考え方ではなく、東洋の「根本原因と向き合い、内側から治癒を促す」ような”原因療法”的な考え方になれたことは非常に有意義だと感じている。
まだまだ分からないことだらけ
正直、自分でも何が正しくて、何が正しくないかは分からない。
けれど、瞑想を続ける中で
「自分の真ん中」がどこにあるのかを感じることができるようになって、外側の出来事にいちいち反応することは少なくなった。
起きた出来事を「客観的」に捉えたり、人から言われたことを鵜呑みにするのではなく、自分の頭で理解しやすい形に変換した上で、「取り入れるか、取り入れないか」の判断が出来るようになってきたことも自分としてはかなりの進歩。
そして、「自分は自分で良いんだ」と内側を見つめ続ける中で腑に落とせたことが1番の収穫。
もちろん、これは瞑想だけのお陰ではなくて、今いる場所が人間関係や社会から少し距離を取れる位置にあって、テレビやニュースというのをほとんど見なくなって、自分が必要だと思う人間関係、情報を意図的に選択するようにした(ただ、偏りが出ないように注意しながら)ことも大きな要因となっていると思う。
そして、何より
瞑想を共にする仲間や「バランスを取る」考え方を教えてくれた人達がいたからこそ、やっとスタート地点に立てたような気がしている。
少しでも興味ある人や体験してみたい人は、気軽に教えて欲しい。何も押しつけるつもりもないし、強要もしない。必要な人には必要な出会いとして起こるものだと思うから。
ただ、自分は常に“本質を捉える”ことを意識した上で自分の感覚を信じるようにしている。
それが後悔のない人生に繋がると信じて。
コメントを残す