置かれた場所で咲くということ

オーストラリアのゴールドコーストへ向かう飛行機から執筆しています。モヨでございます。

飛行機乗る度に、飛行機からの景色大好きだなあって思う。

ほんとに地図の通りの地形してるんだ、すげえとか、地球って丸いなとか、船の人お疲れ様だ〜って思ったりとか

よく旅人で、滝がでかすぎて!自分の悩みなんてちっぽけなんだな!とか、星がきれいすぎて!(以下同文)とかよく聞くけど、

モヨは地球のスケールのデカさを、高いところから見たときの景色で感じてるのかも。(外国級のでかすぎる自然を見たことがないからなんとも言えないけど!)

だから、絶対見晴らしのいいところに住みたいんだ〜。

本題

さて本題。

最近、色んな人から同時に降ってきた言葉がある。

「モモヨの優先順位は何なのか」

「モモヨの目的と手段は何なのか」

「どこに行っても一緒やで」

「感謝」

「知足」

「覚悟」

「置かれた場所で咲く」

これらの言葉はつながってないようで、つながってるって感じた。

「置かれた場所で咲く」この言葉を聞いた瞬間にハッとした。

置かれた場所で咲こうとするより、咲く場所を自分で選んだっていいやん!って今までずっと思ってた。

だから、今まで、「このままじゃだめだ」「環境を変えなきゃ」って色んなところをふわふわと動いてきた。

その自覚は自分でもあるし、それが正義だと思ってた。だって、環境を変えてみて、変われるかどうかってやってみないとわかんないし。

とにかくなんでもやり始める。これが、モヨのモットーだった気がする。

だけど、今までの、「このままの環境じゃ咲けない」って気持ちは、”今ある環境に感謝の気持ち”がないから生まれてるんじゃないかって思った。

理屈では自分が恵まれてることだって分かるし、口には出せるけど、本質は捉えられてないと思う。

始めることと覚悟

私にとって、やり始めることは簡単だ。

でも、「始める」という行為に「覚悟」を持てていない。

むしろ覚悟を持ってないから始めることが簡単とも言えるかもしれない。

ここで咲けなきゃまた違う場所に移ればいいだけって思ってるから。

でもそれじゃ、いつまでも咲けないってことに気づいた。

ずっと綿毛のまま、ふわふわ浮いて、移動して、どこにも根を張れず、自分らしく咲くことができない。

ずっと綿毛でもそれはそれは私のスタイルなのかもしれない。でも、モモヨは咲きたいと思っている。

モヨの目的は

モヨの目的は「咲くこと」

「自分らしく輝きたい」そう思ってフィジーに飛び出したまさとさんと同じように、モモヨは「自分らしく咲きたい」そう思った。

じゃあ、どこかで根を張らなきゃ。

根を張るには覚悟がいる。

覚悟するには、その環境を認めて、感謝することが必要。

今自分が与えられている大地、水や日光、空気の綺麗さ、生物の多様性、天敵。全部ベストのクオリティではないかもしれない。でも、神様がここに私を植えたのである。

今の自分に必要なものは揃っているはず。必要なものが自分の環境にあること。感謝だね。

モモヨはどんな風に「咲きたい」のか。

まだ分かんない。でも、「この選択は自分の成長につながっているのか」それをもとに優先順位をつけていかなきゃ。

全部いっぺんに選ぶことはできないから。

ひとつずつひとつずつ。

つきまとう“自信のなさ”

私には自信がない。

ずっとつきまとっていた問題の原因がやっと分かった気がする。

だって咲けたことがないから。

根を張って咲く準備をしている仲間。咲いている仲間。見ていると焦る。

でも、私の土壌だってきっと整ってるはず。いろんな人のおかげで栄養がたっぷり入ってる。「ここで咲いていいんだよ」って今までだってたくさん面倒みてくれてた人がいたのに、

「ん〜ちょっと考えます〜」ってさらっとその場をしのいできた。

そろそろそのライフスタイルには終止符を打たなきゃ。

そろそろここで根を張りはじめるとき。

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