鶏の「屠殺」体験きろく。

私は2月7日に、鶏肉の屠殺の体験をして来ました!☘️

今回の体験をしてみて、

私はこれからもとり肉やお肉を食べ続けようと思います。

屠殺体験後に、かのんはこの体験をしてお肉を食べれる?と聞かれたり、

実際に私のおばあちゃんが昔屠殺をしていた経験があって今は鶏肉は食べれなかったりして、

私自身も、屠殺体験前に、体験後もしかしたら食べれなくなるかな。とか考えていました。

でも、これからも食べようと思えた、

その理由や感想を書いていこうと思います!☘️

《屠殺体験の1日》

屠殺の体験で何をしたのか。具体的にシェアします!

(結構直接的な表現もあるので苦手な方は飛ばしてみてください☘️)

まず、今回体験をさせてもらった場所の感想🌼

京都府の美山にある「田歌舎」というところ。

(京都駅から電車とバスを乗り継いで約2時間ほどの場所です!)

で、この田歌舎がとにかく素敵な場所だった!!

広い敷地には、手作りのウッドハウスがあり、猟犬が何匹もいて、お米やお野菜の畑があったり、田歌舎で育てた食材や周りの山で狩った動物のお肉などが食べれるレストランもあり、アクティビティができる川や山、滝、宿泊施設もある、ときめきとワクワクがいっぱいの場所でした!

そして天気にも恵まれて、青空の下真っ白な雪化粧でキラキラ光る景色が最高に綺麗で、空気もとっても澄んでいて、幸せな気持ちでスタートしました💞

屠殺

体験が始まる前に、説明を受けてから体験スタート。

まず、養鶏場で買ってきた鶏をゲージから足を掴んで出すところから始まった。

初めて触る鶏。持つのが怖かったけど、覚悟して持つと、意外とおとなしくてびっくりした。

そして、温かかった。生きている温度を感じた。

鼓動も感じた。ドクンドクンと脈もある。

当たり前のことだけど、今から屠殺して、お肉にして、いただく。っていう未来を考えると、その鼓動と温かさに、複雑な気持ちになっていた。

鶏は、一羽で持つと暴れる可能性が高くなる。

でも、二羽を同時に持って胸と胸を合わせた形で持つと、おとなしくなって暴れづらいらしい。

自分の持ってる鶏と友達が持ってるもう一羽を合わせて、二羽の足を縄できつく縛る。

そのまま縛ったところを持って、逆さまの状態で屠殺場に連れて行く。

屠殺場は、2本の木の間に竹が一本かかっていて、その下の雪はすでに真っ赤に染まっていた。

私たちのお昼ご飯用の鶏を先に朝イチで屠殺して今調理しているとはちらっと聞いていた。

その場の血を見て、すぐに、あ、お昼ご飯でいただく子達(鶏)の血なんだって、想像がついた。

その竹に、逆さまに鶏を吊るして、屠殺のレクチャーしてもらう。

鶏の頭にあるヒラヒラした鶏冠(とさか)を掴んで鶏が痛がらないように顎に手を添え、

一発で切れるようによく磨がれたナイフを首に添え、力を入れて真下に下ろす。

ざっくり切れた首からは、ダーっと血が出てくる。

切ってから30秒ほどすると、鶏が暴れ始める。

この時に血が飛ぶから少し離れて、鶏が落ち着く(息を引き取る)のを待つ。

屠殺の一連はこれで終わり。

実際に「屠殺」をしてみて。

自分で屠殺して、息を引き取ってだんだんと冷たくなる鶏。

生まれて初めてする体験。なんともいえない、悲しくて辛いような、初めて味わう複雑な気持ちだった。

屠殺をする前に、思い出したことがあった。

それは、前日にバイト先の店長に言われた、

「ためらったらあかんよ。ありがとうっていって、思い切って一発でやってあげないと。鳥がツラい思いをしないように。」

ナイフを下ろす時にどうしても力が入れられなかった。

1度目ナイフを下ろした時は、毛しか切れなかった。

でも、店長に言われたこの言葉のおかげで、感情が昂る中、冷静になってしっかり屠殺に向き合えたと思う。

2度目でしっかり頸動脈まで切ることができた。

屠殺後の処理と解体

屠殺後は、すぐに70度のお湯にじゃぶじゃぶつけます。皆んなで「熱っ!」って言いながら、鶏の毛穴が開くようお湯につけて、その後は毛をむしります。

ツルツルの一般的な丸どりの状態にします。

次は、解体場に移って、丸鶏を捌く工程。

やっぱりここで感じたのは、

生きていた鶏に刃を入れた時とは、同じ刃を入れる作業でも、全然自分の心持ちや感情が違ったこと。

一つづつレクチャーを受けながら、部位ごとに内臓までひとつづつ切り分けて、胃や砂肝は洗って、約2時間かけて鶏肉の解体を行った。

捌いていて思い出したことがあった。

それは、お母さんが昔、「私もある時、丸ごと自分で調理できる食材しか食べない時期があった」と言っていたこと。

やっぱり、丸ごと食べられるところは余すことなく感謝して食べたい。

捌いていて、強くそう思った。

命→生き物 認識の変化

始めは、鶏を「生き物」として認識していた。

その生きている鶏を自分の手で殺すこと、その感覚を体験して、大きく感情が動いた。

悲しい。ツラい。

でもその感情はずっと続くわけじゃなくて。

鶏が冷たくなり、毛をむしり終わって丸どりの状態になってくと同時に、さっきまでの感情はなくなっていた。

そして気づけば、「とり肉」としてみる(認識)するようになっていた。

しばらくはその感情や認識の変化に頭が追いつかなかった。

私って冷徹なのかな。とか思った。

でも、それが自然なことだと、気づいた。

目的は最初から、食べること。

だから、屠殺して捌いている。

悲しみ続けて可哀想と思っていたら美味しくいただけない。

この気づきができた理由が大きく2つあったから紹介します。

●1つ目は、

鹿の解体をしていた女性のお話

解体所で、私たちが鶏肉を捌いているときに、外で、私と同じくらいの体格の若い女性が同じくらいの大きさの鹿を捌いていた。

その方に、なぜこういうこと(生活)をしようと思ったんですか。って質問した。

そしたら、

「生き物が好きなんです。」って言っていた。

それと同時に、「今はこうやって殺して捌いてますけど、」「食べるのも好きだし、触れ合うのも好き」

って、言われてた。

矛盾してる様な言い方をされていたけど、

私は、すごく自然な形だなって思った。

●2つ目は、

田歌舎で出来たこと。

それは、

「日常を体験する」というコンセプト

があったから。

体験前に説明で言われた言葉。

「今回皆さんには、田歌舎の私たちの日常を体験してもらいます。スーパーに行って買うよりも、養鶏場から鶏を買って自分達で捌いた方が安くて早くて美味い。屠殺も私たちにとっては普段の日常です。それを体験してもらいます。」

と言われました。

そして、私たちをアテンドしてくださったかずまさん。

とても自然体で優しい方。でも、作業はしっかり時に厳しくサクサクと工程を進めてくれた。

かずまさんが、明るく時に面白く1日アテンドしてくれたから。
そして、一緒に参加した3人と一緒にこの体験が出来たこと、感想をシェア出来たから。

1人じゃなくて、誰かと経験するってやっぱりいいなって思った。

体験前と体験後の1番の変化

はじめに言った通り、
私は、これからも食べたいときには、お肉を食べたいなって思う。

でも、体験前と体験後では、

同じ「食べる」でも、確実に私の中で、

その意味合いが変わった。

その変化が、私のこれからの人生にとって、とても重要なことだろうって思う。

「いただきます。」

「御馳走でした。」

この言葉がどれだけ素晴らしく、大切であるか。

感謝をする。

美味しくたべる。

元気に生きる。

そんな日々の当たり前をずっと続けていきたいと思う。

最後に。

一生忘れない挑戦の日になりました!

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