※ここで私が書くことは、あくまでも一般的に多くの人が持っているマインドに対する意見。病気や社会的ポジションについて、深い理解があって書いているわけではないことを理解の上で読んでほしいです🙇♂️
Wikipedia は言った。
障害(しょうがい)とは、ものごとの達成や進行のさまたげとなること、また、さまたげとなるもののことである。と
しかし、私はWikipedia 様の意見と常用的に使われている障害に若干の違和感を感じた。
ここでは、常用的に使われる”障害”を本来の意味と比較しながら違和感の原因を探る。
目次
常用的に使われる障害
私達は、生活・学習・習慣・仕事など様々な場面で
自分の目的に対して、合理的な物事の達成の妨げとなるもの・こと
を”障害”という。
例えば、
テスト前期間のスマホやゲーム機、PCで作業するときの自分の低いタイピング能力 etc…
ここでは、Wikipedia 様の言う通りの使い方で間違いない。
ただ、このような用途で使う人もいるのではないだろうか。
社会の仕組みに、合理的な物事の達成や役割を果たすことが厳しい能力や病気、心情をもった“人“
に対して、障害と言う。
障害とは、社会に合理的な役割を持てない”人”のことを指す。
これは、あくまで常用的な使われ方や考え方として存在していると思う。
幼い頃に、
人に向かって”障害”といって怒られた経験やその様子を見たことがある人も多いと思う。
それは”障害”が、本来人に対して指す言葉ではないから。
しかし、人はよく障害の用途を勘違いをして使用する。
人に対して、障害者という言葉を使う際に
“障害を抱えた者ではなく、障害となる者”
という間違った考え方は根強くあると思う。
そのような考え方は、障害者と健常者の関係でも勘違いを生んでいるだろう。
ノーマライゼーションの考え方
ノーマライゼーションまたはノーマリゼーション(英語: normalization)とは、1950年代に北欧諸国から始まった社会福祉をめぐる社会理念の一つで、障害者も、健常者と同様の生活が出来る様に支援するべき、という考え方である。
とWikipedia様は言っています。
ここでは、
障害者も、健常者と同様の生活が出来る様に支援すべき
と書いてある。
ここで多くの人は、生活が出来るかどうかという”事象”で健常者と障害者で一つ線引きするだろう。
そして、
多くが健常者として生活する世の中では、
・健常者として生活をすることがスタンダードである。
・自分の生活の水準が当たり前である。
・健常者と同じ水準の生活をするための支援が障害者には必要である。
“生活をする”という一つの”事象”で見た時に、
健常者は、障害者を”支援”して、
障害者は、健常者に”支援”される
という関係が成り立つ。
私は、この一つの”事象”で社会的な関係を決め過ぎていると考える。
ヒトが生きる意味
きっとここに全てがあると思う。
障害とは、社会に合理的な役割を持てない”人”のこと
という勘違いの原因も。
私たちは生きる意味の中で
“自分が豊かに生活をする”
というものが大きな比重を持っている。
だからこそ、”生活をする”という一つの事象は高い優先順位を持つ。
“自分が豊かに生活する”ための社会で、合理的な役割を求めるようになる。
結果として、”自分が豊かに生活する”ためのモノ・コトだけでなく、ヒトというものも時として障害として入ってくる。
ただ、ヒトが生きる意味はそれだけではないと思う。
ここからは個人的な見解になる。
自分は生きる意味として、
“全員がやりたいことをして生きていける世の中を作る”
を持つ。
全ての事象には、意味と役割がある。
ヒトが産まれることもその限りではない。
産まれた以上、
全てのヒトには社会的に生きる意味があって、達成したい役割(やりたいこと)が等しくある。
全てのヒトは、支援し合う関係にある
全てのヒトに、社会的に生きる意味がある以上
お互いに依存し合って生きていくしかない。
健常者と障害者の”生活をする”ための関係のみならず。
そして、お互いに達成したい役割(やりたいこと)を持って生きていくことができる。
そうやって考えると、
全ての人に
達成したい役割(やりたいこと)のための
1人では乗り越えられない”障害”を持っているとも考えられる。
全ての人が持つその”障害”は、誰かが持つ能力で補うことができる。
そう考えると、
“誰か”の障害を乗り越えるための”誰か”になるために
お互いに支援することは必要になる。
そうやって、お互いに支援し合うことは
必然的に
“全員がやりたいことをして生きていける世の中”
を作ることにきっとつながる。
自分自身がやりたいことをして生きていくために、
みんなの障害を乗り越えるための”誰か”になろうと私は考える。
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