平和-「今」に感謝して生きるということ (プラグる⑰佑子さん)

やほー!カオハガン島に住む佑子さんの暮らし、島に住む人々の考え方、とても素敵だった!忘れないうちにまとめていきます〜〜

豊かな暮らしの感じ方

講義後のおしゃべりタイムで聞いた、

「カオハガン島での暮らしを9年してみて、移り住みたいと思うことはないのか」という質問

カオハガン島の暮らしはとても豊かで、魅力的で、私にとっても理想だなぁと思った。

そう思う反面、

同じような毎日が続いていく(大体の先が見えていること)につまらなくなったりしないのかと素朴に疑問を感じた。

だって私たちは多くのことを知りすぎている、選択肢が山ほどあることを知っている。いろんなとこに行ける、移動するという自由を知っている。

佑子さんは日本人であり、その点、次の場所に移り住みたくなったりしないのかなぁと思った。

(私でさえ、今の別府は2年半経とうとしている中で、繋がりができ、知り合いが増え、とても充実しているけど、別府は小さい町であることもあって、そこになんというか、窮屈さを覚えることもあった。だから、尚更、700人という島の人みんな顔見知りという状況に窮屈さを覚えないのかと思った)

そこで返ってきた言葉は、「カオハガンで起こることが毎日刺激的だからそんなことはない」ということだった。

その言葉を受けて、よく考えてみると、

毎日同じようなことの繰り返しでも、1分1秒全く同じ日が来ることはない。食べるものも、着るものも、体調も、私自身も、変わっていっている。おんなじような中身の毎日でも、同じではないのだ。その微妙な違いを刺激として受け取り、楽しんでいるのが佑子さんなんだと思った。

えらい失礼な質問しちゃったもんだなぁ、、と理解すればするほど思うけど、「刺激を楽しむ」の意味を納得できてよかった!

ちょっと休憩

よくよく考えると、先に挙げた、”別府での暮らしになにか物足りなさを感じる、窮屈だと思ってしまう”のは、足るを知る(今あるものに感謝する)ことが薄れていっているのからなのかもしれないと思った。

良くないですね!気づいてよかった

平和は半径3m以内から

佑子さんが考える「平和な世界へのヒント」として挙げていた、③「誰も取り残さない」ということ。

(①「足るを知る」②「今を生きる」)

これが1番自分にとって難しいなと思うことだった。

結構私は自分勝手だし、自分の1番心地よい、満足できることが判断軸になっている。

佑子さんの話によると、台風被害の時に、水不足で島全体が苦しんだと言っていた。そんな時も、明日の自分の分の水がないかもしれないけど、今ある分の水を目の前で水がない人にあげていたと話していた。

私が同じ状況になったら、そう動けるかは自信を持って言えない。

自分の命を1番に考えるし、振り返れば、自助が最優先だと防災訓練の教育でも教わってきた気がする。

でも、カオハガンの人々はなによりも「今」を生きている(②)のであって、

明日の自分 <「今」なのだ。

さらには多分、カオハガンではみんなが顔見知りということもあって、自分と他者が一体化している状態なんだと思う(洋服とかもシェア(勝手に使ってる)と言っていた)

それも相まって、

明日の自分のより、「今」目の前の苦しんでる人を助けられるんだと思った。

「誰も取り残さない」をひとつずつ

そう考えた時に思ったのは、

私は「誰も取り残さない」ことができない冷たい人間なのかもしれない、というだけでは片付かないなぁと思った。

カオハガンの島のみんなが家族のような状況とはまた、今の私(in日本)の状況は違うからだ。

「誰も取り残さない」が最終的な目標であって、その「誰」には誰がきても助けられるのが1番。

だけど、まずは自分のまわりの大切な人たち、家族、友達は助けたい。助けよう。

そのために、本当の第一歩として、自分を整えること。自分の足るを知って、満ち足りれば、まわりの人に優しさを分け合う。そんなことができたらいいなと思う。

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