“当たり前”のことを、何今更言ってんだって思っていると思います。
その通りです🤣
算数ができる人なら、みんな分かっている”当たり前”なこと。なんなら、算数ができなくても概念としては必ず知っていること。この世に生まれたもの、自分だって0から生まている。
そんなことは言われなくたって知ってる。人はそんな“当たり前”なことを、深くは考えない。
ものの数を数える時だって、0から言う人はいないですし笑
ただそんな“当たり前”が、物事の本質であることに気づかずに過ごしている人もまたきっと多くいる。
まさに、今日まで自分もそうでした。
自分は人より高い評価・得点を取ることばかりを考えてしまう。0から作り上げる工程なんてなくても、人は評価や点数を手に入れることができる。だから、評価や点数を簡単に上げられる方法・選択肢を探す。
100点満点をとるためにテスト勉強で、教科書を0から作るやつなんていない
こんな”当たり前”は、-全ては0からできている-という”当たり前”を否定する。このように人は目の前のことに囚われた途端に本質を見失う。
原点からしか頂点は生まれない
どうしてそうなのか。そんなことを自分なりに書いてみようと思う。
本質だからといって、これからも私はものを数えるときに0は言わないだろう🤣
0から生まれた篤志の半生
ここからいきなり、自分の半生を語るっていう笑
あ、前編は自分の半生話して終わるので興味ない人はここで読むのやめて大丈夫です笑
自分の自己紹介も込めて、自分が行き着いた”全ては0からできている”という価値観が生まれるまでの過程を知っていただきたいです。
写真によると自分は、小5の頃は勉強を頑張りたかったみたいです笑笑
ここからは、小学校時代の自分の環境・価値観・抱えていた悩みについて話します。
熊本市に生まれた私は、義務教育の元、公立の小学校へ通う。1学年2クラスのこじんまりとした学校。
父の勧めのもと、小3でサッカーを始める。
運動神経があった自分は、部活動を始める。そこで友達ができる。
自分が、人よりも年齢が上の人を恐れ、プレッシャーでとてつもないストレスを感じていることに気がつく。
ここからは、部活も何もかもが楽しくなくなった。部活がある生活の全てが辛く感じるようになった。部活でつるんでいる友達と会うのも嫌になる。大好きだったゲームをしているときだけは忘れていた。そんな気がする。
小5で泣きながら、サッカーを辞める。
サッカーを辞める選択に苦渋し、泣きながらコーチに辞めたいということを伝える。今思えば嫌いだったサッカーを辞めるためになぜあんなに悩んだのか。今なら簡単にわかる。結局はサッカーを辞めることで築き上げた人間関係が崩れ、自分自身が嫌われることに恐れていただけだ。
こうして、晴れて自由になった。そうすると一気に世界は広がりゲーム好きな友達・価値観の合う友達と多くの時間を共有することができた。悩んでいたことが急にアホくさくなったことを覚えている。
左のダンディな男性は、自分の父親です笑笑
本題に戻ると
中学に入った自分は、もちろん部活動なんてやらない。そんなところに自分の出会いたい人、やりたいことなんてないことに気づいていたから。
毎週末友達の家でゲームしたり、趣味について語らう
そんな他愛ない日々が、自分にとっては幸せだった。他に何物もいらないほどに。その時が自分にとっては1番輝いていたのかも知れない。
と同時に、1番戻りたくない時代でもある。
自分の小中学では、絶え間なくいじめが行われていた。中学でいじめはエスカレートした。クラス会議がよくあった。窓が割れたという報告に今更驚くこともなかった。自分は決まって傍観していた。
それが”当たり前“だった。”みんな“そんな環境で
傍観者になること
で勉強して、遊んで、楽しく過ごすことができた。
自分も”みんな”と同じようにそんな環境で何食わぬ顔で勉強して、遊んで、楽しく過ごしていた。
“みんな”はそうすることで”当たり前”に過ごすことができた。
この時、クラスの中には3種類の人間が存在していた。
一種類はいじめっ子である”加害者“。
また、一種類は傍観者である”みんな“。
最後の一種類は“みんな”にとって部外者である”被害者”。
“当たり前”はこんなにも残酷な現実を生んでいた。ただ、当時の生徒で気付いていた者はきっと多くはないだろう。
自分だって知らないことにしていた。そうしなければみんなのように”当たり前”に過ごせないから。
ここで”当たり前“とは何かについて立ち直って考えてみる。
この頃の当たり前
○真面目に勉学に励むこと
◯友達と仲良くすること
◯先生の言うことは聞くこと
◯毎日欠かさず学校に通うこと
“当たり前”のために、人はどんな”理不尽”も受け入れなければならない。当たり前が産んだこんな”理不尽“は、こんな環境で全員学校を卒業するという”当たり前“を可能にした。
被害者は、”毎日欠かさずに学校に通う”
そんなことのために、休みながらも学校に来続けていた。
無事、”当たり前“に中学を卒業した時自分は
義務教育が嫌い
という事実に卒業して気が付いた。
“当たり前”が嫌いになった。
これは、いじめがあったからというだけではなく、
“当たり前”が受験期に大きなしがらみとなって自分を襲ったから
これによって、自分にとっての多くの財産を失った。
・大好きで心の拠り所であるゲームが周りから悪だと言われた
→大好きだったゲームをストレスに感じるように
・自分のなりたい像が見つからないと少し上の学力を目指すように強要された
→学習が得意だった自分は、何の目的もなく勉強(勉を強いる)をする中で学習が嫌いになった
・高い目標を持って勉強している友達が受験期にいじめっ子の標的となって、学校でまともに勉強できなくなる
→勉強して、遊んで、楽しく過ごす“当たり前”が侵害された。
無論、受験期が自分にとって多大なるストレスを与えた。
そこで一つのことに気が付く。
“当たり前”は、0から作られたものではない。0、つまり原点は自分の求める幸せにある。
高校に入って以降、自分のこの価値観を大きく変えるような出来事はない。
様々な出会いや経験によって、この価値観が色とりどりに立体的なものへとなっていく。
そして、
当たり前=社会の作り上げた理想像
に踊らされて、傍観者として生きていたことを恥じる。惨めに思う。後悔する。
本気で“自分のために生きること“を目指す。
恥じず、惨めに思わず、後悔する選択をしないよう、自分の価値観に従って行動することを決意する。
長い半生を振り返って
ほんと長くなっちゃいました笑笑
とりあえず、自分の半生は以上になります。
なんか”反省“みたいになってしまいました笑
自分の価値観は、小中学で固まったと思います。義務教育嫌いは今も変わりません。ただ、公教育へのあてつけであって
本当は
“心から幸せと思える環境が欲しかっただけ”
ただ、それだけなんです。
次回以降は、なぜ今日自分が”全ては0からできている”,”原点からしか頂点は生まれない”と思うようになったかをお話しできたらと思います。
ぜひ次回も読んでやってください🤗
あっちゃんのこれまで考えてきたこととそれを振り返っての今の考えや行動が手に取るようにわかって素敵な文章読めてうれしい〜!
また一緒にゲームしよう
おお、すいさん!
コメントありがとうございます
そう言ってもらえて、とても嬉しいです
是非またゲームしましょう笑
そしてコロナも落ち着いてきたので、是非近いうちに会って遊びましょう